<飲茶の広がり>
飲茶の習慣が広がったのは
中国が初めての長期統一政権となった唐の時代のことになります。
中国全土で茶樹の栽培が始まり、
いままで皇帝・貴族しか飲むことのできなかったお茶が
富裕な市民層にまで行き渡るようになりました。
この時期、陸羽(りくう)によって初のお茶に関する専門書「茶経」が編纂されます。
この本はお茶の効能や加工法、茶器などについての知識を
集大成させたものとなり、後世にも多くの影響を与えました。
また、このころ遣隋使や遣唐使によって、日本にも飲茶の習慣が入ってまいりましたが
天皇や貴族が薬として飲んでいる、大変高価なものであったと当時の歴史資料は伝えております。
また、日本での茶樹の栽培は平安時代には始まっていたとも言われます。
(当店のある長崎にも、弘法大師(空海)の伝説の一つとして
遣唐使船に乗り込む直前の弘法大師が、長崎に茶樹栽培を広めたのが
日本でのお茶の栽培の始まりとする伝承が残っていたりもします)
<釜炒り茶の誕生と大衆化>
唐が滅び、宋、元に続いて建国された明では
騎馬民族であった元が輸送のしやすい固形茶を重用した反動からか
(製茶が難しく、農民に負担がかかるなどの理由もあって)
固形茶の生産を禁止し、現在の製茶法の元祖である釜炒り茶の製法を奨励しました。
これによって製茶が簡単になり、大量生産されて一般庶民にもお茶が普及することになりました。
日本にも武士文化による禅宗の広がりを受け
中国から招かれた禅僧の栄西(えいせい)が釜炒り茶の技法を伝え
武士や僧侶に飲茶の風習が伝わりました。
室町時代になると貴族化した武士たちが
茶の味から産地やどこの水かを当てる「闘茶」が流行し
土地や家屋敷まで賭けたギャンブルとして加熱していきました。
さて、ヨーロッパでは長い間、中国商人からシルクロード経由で高額なお茶を買ってきていたのですが、
大航海時代の到来とともに、お茶の生産地を植民地化して、
自分たちで安価なお茶を手に入れられるようになりました。
その代表がイギリスの東インド会社で、アッサム地方などに茶樹の大農園を作りました。
大航海時代の植民地政策は、もちろんその国の支配圏を増やす目的もありますが
産地直送で安いお茶と香辛料を手にいれるための、命がけの冒険の時代とも言えるでしょう。
ちなみに、ヨーロッパで紅茶が主に飲まれている理由としては
輸送中に茶葉の発酵が進んでいったことが挙げられます。
一方、日本では戦乱に明け暮れた戦国時代が終わり
全国を統一した豊臣秀吉に庇護されていた茶人・千利休が
闘茶の流行などから華美になっていく一方のお茶への違和感から、
禅宗の「わび」「さび」の思想を取り入れた『茶道』を大成させました。
またその一方で、天下人となった秀吉は、自由参加の大規模な茶会を開いて
一般庶民にも飲茶の習慣を根付かせました。(「花見」の風習はこの茶会から来ているといわれます)
利休は秀吉のお茶の指南役も勤めていたのですが
後には茶の道に関する方針の違いなどから仲たがいし
利休に秀吉が切腹を命じる、という悲しい結末になります。
この二人によって日本の茶道というものの基礎が形作られることになりました。
ちなみに茶道といえば「表千家」「裏千家」などに別れていますが
これは別にお家騒動があったりしたわけではなく
千家三代目・宗旦が引退する際に
表側の庵を三男に与えて家を継がせ(こちらが表千家)
自分はその庵の裏に新しく庵を築いて、末子に茶の道を教えました(こちらが裏千家)
さらに宗旦の次男が分家して築いた庵もありますが(これが武者小路千家)
別にそれぞれは対立しているわけではなく、使用する道具やマナーに若干の差があるというくらいです。
(表千家と裏千家の違いについて紹介されているサイトもございます)
<日本緑茶の誕生とお茶が招いた事件>
江戸時代になると、現在の緑茶とほぼ同じ「蒸製緑茶」の製法が京都で開発されましたが
「お茶=抹茶」という考えの京都人には受け入れられませんでした。
一方、江戸に運ばれた蒸製緑茶は、手軽さや甘さから町人階級に大ヒットし
お茶=緑茶が全国的に定着する形になりました。
一方、コロンブスによる「発見」を経て(主に)イギリス領となり、多くの入植者が渡っていたアメリカにおいて、
イギリス政府はライバル国のオランダからの密輸入茶を無くすことと、イギリス本国の財政建て直し、
そしてなによりも植民地に対する課税権を行使し、支配を強める目的から
東インド会社による茶の専売と茶税の導入を決定。
1773年12月16日、これに反対する独立派の入植者が原住民に扮装して
ボストン港に停泊中の東インド会社船を襲撃し、
342箱の紅茶(重量にして約45トン)を海中に投棄する事件が発生しました。
その後、海がしばらく紅茶の色に染まるくらいだったといいます。
これが有名な「ボストン茶会事件」です。
この事件を引き金にアメリカ独立戦争が勃発し、世界は一つのターニングポイントを迎えたわけです。
(ちなみに、この事件をきっかけにアメリカではコーヒー派が主流になったということです)
江戸時代前半から幕末までの約200年間
日本は鎖国をしていましたが、(長崎の出島など、一部の港は開かれていました)
幕末の黒船来航→開国の流れで、日本のお茶は主要な輸出物となりました。
(他の輸出物としては金や銀、生糸、陶器などがあります)
当店がございます長崎においては、女傑・大浦お慶が
海外相手の茶貿易でひと財産を築き、
その財産で坂本竜馬が起業した亀山社中(後の海援隊)を支援したとも言われております。
(実際はそこまで大規模な支援は行っていない、という説が有力です)
お茶は幕末の動乱や日清・日露戦争、2度の世界大戦を挟んで、
太平洋戦争後の復興期まで日本の重要な輸出物でしたが、
高度経済成長による急速な工業化・農業人口の減少で生産農家が大幅に減ったこと、
人件費が安く栽培面積が広い中国産やインド産に押されたことで
現在は栽培分はほぼすべてを国内消費に充てられ、
近年人気のペットボトル茶用の茶葉は、中国からの輸入も行われています。
お茶屋さんには少し厳しい現状なのかもしれませんが、
当店は「いつもいいお茶」の精神で皆様にこれからも味や香りに徹底的にこだわった
「いいお茶」をお届けしたいと思います。